マイクラリモコン / 開発チームが考えていること
生成AI時代には無用では?
2026年、生成AIの爆発的進化により、「アプリを書いたことがある、の価値」は元より、「アプリの存在意義」さえ揺らいでいる。以前は、親にはさっぱりわからないのに、我が子は嬉々としてアプリを作っている、という驚きがあったものだが、最近では普通の会社員も目の前で生成された使い捨てアプリに親しみ、「ほとんどコードを書いていない」と公言するプログラマーも増えているのだ。
さて、コーディングをこれから学ぶ意味、ある?
2017年、コーディングとは何か、考えていた。(「Coding vs. Programming(Scratch Meetup Tokyo, 2017)」、PDF)それは、コードを触って・変えて・観察して・判断するループの現場にこそ創造性が発揮されるというアイデアだった。小さなカタマリから試して段々と結合してみては、やり直し、一部を分解して修正する、ブロック遊びにも共通する手触りの手法。かつて、単なるコードの打ち込みを表していた「コーディング」は、実際にモノが動く現場で、そのループの中で、創造性を引き出す行為として、その意味を変えたのだ、という解釈。
2026年の今、この解釈はむしろ重みを増している。
- 生成、打ち込みは任せていい。判断は人間が握る。ここに創造性が輝く。ループの中に人間が残ることがボトルネックだ、という人もいるが、それは、「〜みたいなアプリ作って」のように、見本が既にある模造品に限られる。マイクラみたいなアプリ、さえ作れてしまう。
- 今までも、「要求仕様書は満たしています。」というだけで、実際には使い物にならないアプリは量産されてきている。元々、コードを書くだけでは、ダメなのだ。
- AIが更にレベルアップすれば、AIとの関係は人間同士のコラボレーションに近づき、「こんなコトを起こしたい」というレベルに目を配ることが容易になる。ただし協働である以上、相手の仕事を読めることが前提になる。
だから、もちろん、学ぶ意味がある。ただ、学ぶ中身が変わる。消えるのは暗記と打ち込みの労力で、消えないのは判断のための足場だ。その足場は、目の前のTODOから始まり、ビジョンを越え、ミッションまで続いている。「次の1行をどうするか、どんなモノを作るか」と「どんなコトを起こしたいか」、そして「なぜそれをやるのか」は、別々の判断ではなく、ひと続きの判断だ。
コードは、意図と現象をつなぐ「読める層」。他の人が作ったものも、AIが生成したものも、開いて確かめ、改造できる。マイクラの世界は、その変化を目で見ながら試せる箱庭になる。そして、マイクラリモコンは、「手触り感のある試行錯誤」の道具を目指している。